私が潜在意識を活用してつかんだ逆転人生体験談

私の人生の前半は、孤独と貧乏と病気に悩まされました。

まずは簡単に私の履歴のご紹介をしましょう。

昭和39年6月、愛媛県に生まれる。2歳のときに両親が離婚、両親とも私を引き取らず孤児院に預けられる

3歳で育ての両親に引き取られる。

病気がちな両親のため、貧乏のどん底で育てられる。8歳で育ての母親が結腸癌のため死亡。

10歳のときに父親が再婚、再婚した女性(今の母親)はカタカナしか字が読めなかった。(ビックリでしょうか?この話は本当です。母親は、戦前生まれで貧乏な家に育ったため、両親が学校に行かせてはくれず、お金持ちの家の子守に行かされていたそうです。このように、満足に学校に行けないため、字が読めない人というのはたまにいたそうです。)

小学生時代は、家族が生活保護を受けていたため、汚くみすぼらしい服装しかできず、そのためか、よくいつもいじめられていました。

小学校6年から高校3年まで新聞配達をして、自分のこずかいや学費を稼ぎながら高校まではなんとか卒業。

高校卒業後、陸上自衛隊入隊、その後、職を転々としているうち、23歳のときに慢性B型肝炎と診断される。

27歳まで頻繁に入退院を繰り返す。

ひどいときには一年の内8ヶ月を病院で過ごす。このとき人生を諦めかけました。(難病指定の疾患で、これといった治療方法も確立はされていなかった。伝染性の疾患のために、就職も結婚も難しいとされていた。徐々に進行し、最終的には、肝硬変、肝臓ガンで幕を閉じるパターンの方が圧倒的に多いと聞かされていた。)

同時期に母親が脳梗塞で倒れる。その2年後に父親が前立腺癌と診断される。

このときの私は、「借金」と「病気」と「孤独」とが強いプレッシャーをかけてくる日々に疲れきっていました。

20代の後半に入る頃、私は完全に人生に対し「やる気」と「希望」と「生きる気力」を失いつつありました。

入院中に、「マーフィー」「謝世輝」さん等が書かれた著書(タイトルは忘れてしまいました)を院内のボランティアの方が運営する移動図書館で借りて読むことに。

これらの本が私の人生を大きく変えました。

以後、人生が180度好転。就職もでき、結婚もしました。

35歳のときに独立。現在行政書士として活動中。

以上が大まかな、私の歴史です。

ここまで読んできて、モット詳しくこの人のことを知りたいと思った人は詳細なプロフィールをこの次から書いてありますから読んで下さい。ただ、ちょっと長いですから、読む前にコーヒーでも飲んで一服してからがいいかもです。

「そんな長いのなら読みたくないので簡単な紹介文を読みたいという人はこちらをクリックしてください。

潜在意識を活用して人生を逆転した私の体験談

私、加川の人生の前半部分です。少々長いですが、我慢してください。

幼少期のトラウマとの闘い1

私は今、こんな偉そうなホームページを運営していますが、昔は惨たんたる人生でした。もうひどいもんです。

今は、仕事・家族・友人に恵まれ幸せな生活を送っています。

しかし、生まれてから20代後半までの自分には、今のような生活を送ることは想像も出来ませんでした。

なにせそれまでは、「俺は、何故ここまで不運な人生なんだ?俺が何をした?」

こう叫びたくなるような人生を歩んでいましたから。

私はいわゆる捨て子でした。3歳まで孤児院にいました。その後、育ての親に養子縁組みをされ、引き取られるのですが、その引き取られた家の状況もひどいものでした。

とにかく貧乏。おこずかいをもらった記憶はほとんどありません。おもちゃも買ってくれない、友達の誕生日にはプレゼントが買えないために行けない。いつも破れた靴下をはいている。私は小さいながらも「なんで自分だけこうなんだろう?」いつもこう思っていました。

親からは、「お前は誰の子か分からない。どうせたいした人間にはならないだろう」このような言葉をかけられたのも覚えています。この言葉は小さかった自分にとっては非常に大きく、「自分はたいした人間じゃないんだ。」この想いがいつもどこかにありました。この言葉は成人した後もトラウマとなり私の潜在意識に根付き、何に対しても自信の持てない自分を作り上げたような気がします。

中学に入った後も、部活動を始めたくてもお金がないからできない。友達から服を買いに行こうと誘われてもお金が無い。このような状況の中、私の心の中にはすごいコンプレックスが芽生え初めていました。普通の家庭の人間をうらやみ、妬むようになっていました。

また、いつも汚く、みすぼらしい格好をしているので、いじめの対象になり、学校にいくのもイヤになっていました。

このときのみじめな気持ちは今でも強く覚えています。

今考えるとくだらないのですが、友達がレコードを買う、みんなで聞きに行こうとなる。私は行けないのです。だってステレオも、レコードも買ってくれない自分の状況が惨めになるから。このときは、みじめというよりもなんともいえない孤独な気持ちを覚えました。

このような状況から脱出したいと考えた私は、新聞配達を始めます。

「自分の金は自分で稼ごう」こう決めたんです。「このままでは、高校にも行けないかも知れない。いまどき、高校くらいは出ていないとまずいだろう」こんな気持ちが強くありましたから。

しかし、その高校生活が成人後の自分を苦しめる原因を作る一番大きな要因となってしまいました。

幼少期のトラウマとの闘い2

新聞配達を始めた私は何とか高校へ進学することができました。

しかしこの、高校進学が成人後の私を苦しめる結果となります。というのも、私が進学した高校は、いわゆる進学校だったのですね。ほとんどの同級生が大学に進学します。

高校3年になったころ、友達の間ではどこの大学にする?という話題でもちきりでした。私は、高校を出たら働こうと考えていましたから、当然この話題には入っていけませんでした。すごくみじめな気持ちでした。自分が他人よりひどく劣った人間であるかのような気持ちになりました。

しかし、本当の意味で劣等感にさいなまされたのは社会に出てからでした。私は高校を卒業後、陸上自衛隊に入ったのですが、肌に合わず1年あまりで退職します。

その後、友人が東京の大学に進学していたために、東京へ上京します。さて、いざ就職活動となったその時、自分が行きたいと思う会社は全部、大卒以上という条件です。

私はこのとき初めて学歴社会というものを実感します。

「大学を出ていなければ条件の良い会社に就職できないのが社会の仕組みなの?」

「知らなかった・・・」

今思うと、とても幼稚でしたが、田舎育ちの私にとってこの現実はかなりショックでした。挫折感いっぱいです。

フリーターになった私は、日々なんの目的もなく、たんたんと生きてるだけ。

「自分は価値が低い人間なんだ」このような想いが自分を支配していきます。そんなとき、23歳の時だったと思います。同窓会の知らせが届きます。

ここでもまた、ショックを受けます。

仲の良かった同級生の多くが一部上場企業への就職をはたしていました。

バブルがはじまったころで、完全な売り手市場だったために、大学を出てさえいれば就職できるという状況でした。

大卒で一流企業に入社している友人、高卒でフリーターの自分。

小さいときから貧乏な家庭で劣等感とともに育ち、社会人になっても結局はさえない人生。

「俺の人生こんなものか。一生さえないのかな?」このような想いで日々を過ごしているときに、今度は難病が私を襲います。

不治の病でした。

病魔との闘い1

23歳のときです。友達の家へ遊びに行った帰りに、JR山手線恵比寿駅前で献血の呼びかけをしているところに出くわしました。

このとき何気なく「献血でもしてみようかなぁ」こんな気持ちになったんですね。

今思えば運命の瞬間だったのですが。

献血後、数週間して日本赤十字社から封書が届きました。

「なにかな?」軽い気持ちで封を切ってびっくり、「あなたは、B型肝炎の疑いがあるから、日本赤十字中央医療センターに行くか、東京大学医科学付属研究所病院に行って検査を受けた方がいい」と書いてあるではありませんか。

まさに晴天の霹靂でした。

「何それ?どういうこと?」「B型肝炎って何?」「すごく難しそうな名前だけどひょっとして怖い病気なのかな?」このような思いが頭の中をくるくると回りました。このとき確かに「疲れやすい」「お酒が弱くなった」などの兆候はありましたが、まあ疲れが溜まってるんだろうくらいにしか考えていませんでした。

まさかB型肝炎とは・・・

心配でしかたなかった私は、さっそく本屋に行き、医学書を開いて「B型肝炎」について調べました。読んでさらにびっくり。そこには「慢性B型肝炎は治らないし、これといった治療方法も今のところ無い」というような内容が書かれてありました。

目の前真っ暗になりましたよ。「どうしよう慢性B型肝炎だったら」もう、この考えしかできない状態です。何をしてても頭から離れません。

そして、運命の検査日です。先生は、「採決の結果を至急で出すから少し待っていて下さい」このように言われました。結果を先生の口から聞いた時の瞬間は今でもはっきりと覚えています。

「今日今すぐに入院出来る?家に帰すわけにはいかないんだよね。」「GPT値が1200もあるから、なにかあったら大変だから」

もうくらくらって感じでした。

「GPT?」「1200?」

「入院?今日?今すぐ?」

「何それ?そんなに悪いの?」

愕然、かくして即日入院となったのです。

この日を境にして、病気、借金、孤独との闘いの幕が開きました。

病魔との闘い2

検査に行ったのに、即日入院となってしまった私は途方にくれました。

なにせ、洗面用具やら下着やらなにも用意はしていないわけです。家族は遠く四国にいますし。

とりあえず、その日の夜に当時つき合っていた彼女に電話をして、入院に必要なものは私のアパートからもって来てもらいました。

さてここからが地獄の一丁目の始まりです。まず私にはお金が全くありませんでした。

貯金は「ゼロ」「入院費はどうしよう」「アパートの家賃はどうしよう」「光熱費はどうしよう」こんな思いがベットで寝ている私の頭の中をグルグル回ります。この想いが消えたらこんどは、「治らない病気って本当なんだろうか?」「このまま死ぬのかな?」こんな想いがグルグル回り始めます。

実家をほぼ勝手に飛び出してきた私は、両親に助けを求めることはしたくありませんでした。助けを求めても、あてにならないことは分かっていましたし。ですから、一回目の入院の際には、両親にこのことは知らせませんでした。

そんなこんなで、私は自分一人で病気と闘っていかなければいけなくなってしまったのです。

入院してから10日くらい経って、先生からこう言われました。「加川さん、B型慢性肝炎は今のところこれといった治療方法がないのです。とりあえず、安静にして様子をみましょう。まだ若いから今すぐどうこうといったことにはなりませんから、」

「今すぐどうこうとはならない?じゃあ将来は何かになるのか?」

「もう一回、医学書を良く読んで自分の病気について調べよう」

次の日無断で外出した私は、渋谷の大きな書店に行きました。よく調べてみて大ショックです。B型慢性肝炎は、肝炎→肝硬変→肝癌 といった経路をたどることが多いというような内容のことが書かれてありました。

当時の私は、これを読んで、死刑宣告をされたような感じでした。「この若さで、もう人生を諦めなくてはいけないのか?」「生まれてこのかた俺には不幸ばっかりじゃないか」「なんで俺ばっかりこういう目に会うんだ」人生に対する恨みの感情がこみ上げてきました。

病魔との闘い3

慢性B型肝炎は、肝硬変から、肝臓ガンへの経路をたどることが多いという医学書の記述を読んだ私は、茫然自失でした。

日々の入院生活にも、何の希望も持てずに自暴自棄でした。

看護婦さんや医者の言うことは全く聞かずに、無断外出や無断外泊をしたりして強制退院直前までいったこともあります。

この後私は、5年間に渡って、入退院を10回繰り返します。この間、満足に働けることは当然ながら出来ないわけです。両親に助けを求めることも出来なかった私は、短期間のアルバイトや日払いのアルバイトをしながら生活をしていました。

しかし、その間にも借金はどんどん増えて行きます。

お金を借りるのにも大変でした。

正社員ではないので、ちゃんとしたところからは借りることは出来ずに、町金融みたいなところからチビチビ借りながら、自転車操業です。

このままでは自己破産になると思った私は、当時住んでいた品川区役所に生活保護の申請をしに行きました。

しかし、そこで言われたことは、「住民税を払っていない人には生活保護を受ける権利は無い」というものでした。まあ当然といえば当然なのですが、その時は、「もう万策尽きたな」といった感じでした。

そんな時、朝起きておしっこをすると、なんと、おしっこの色がコカコーラのような色だったのです。これにはもうびっくり、「何???」「ひょっとして黄疸が出たのかな?」鏡をみると、顔は真黄色、白目の部分も見事に黄色でした。便は真っ白です。まるで胃カメラをした後に下剤を飲んでした便のようです。

急いで病院に行った私はまたしても即刻入院です。このときはもうさすがに完全な諦めのモードです。このときが10回目の入院。お金も気力も尽き果てていましたし、今までに見たことがないような症状に本能的にすごい危機感を感じました。

しかし、この入院が私にとって人生を180度変える大きなきっかけとなりました。この入院を通して私は大き変わることになります。

病魔の克服1

10回目の入院、最悪の状態。食事は一切出来ずに毎日24時間点滴です。血液を凝固させる機能も落ちてしまい、凍結血漿を点滴する日々、肝臓の炎症値を示すGPTは2000を越えていました。

医者も「慢性肝炎ではこのような症状は普通でないのだが???」このように言いまして、自分の中では、「もういいや、死んでも、でも残った借金はどうなるんだろう?誰が払うのかな?」こんなことを考えていて、なんとか治ろうとする気力も無くなっていました。

そんな時です。ある方(ここではT氏としておきます)がひょこっと現れました。T氏は私が8回目の入院のときに、C型肝炎で入院していて、ある日肝臓ガンの宣告を受けていた人でした。

それも卵大の癌が2つもあり、もう助からないといわれていました。私が入院していた日本赤十字医療センターでは治療が出来ないので、へ当時最新の治療と言われていた「エタノール注入法」を受けるために他の病院へ転院していました。

失礼ながら、私はこのときに、「あ、Tさんまだ生きてたの?」正直このような感想を持ちました。そしてこの出会いが私の人生を変えます。

T氏 「いやなんとなく加川君が入院してるんじゃないかと思って来たらやっぱり入院してたね」

私 「はあ、まあ、しょっちゅう入院してますから、でも今回はだめみたいですよ。ご覧の通り散々な状態です」

T氏「加川君、俺は癌を克服したよ」

私 「え!治ったんですか?良かったですねー、エタノール注入が効いたんですね」

T氏 「いやいや、そうじゃないよ、あれは効かなかった。潜在意識が救ってくれたんだよ」

私 「潜在意識??何ですそれ??それで病気が治るんですか?」

この後、T氏は詳細に自分が病気を治した方法を語ってくれました。

正直、Tさんの話を聞いたときには、この人頭がおかしくなったのかな?と感じましたし、ひょっとして何か新興宗教にでもはまったのかな?とも思いました。

しかし、実際に癌を克服した人が目の前にいて、こうやってなおしたと言っているのですから、信じなければという気持ちもありました。

入院しているわけですから、時間はたっぷりあります。

私はTさんから教えてもらった方法を実行してみようと思いました。

「もう、病気が良くなるんならなんだっていいや、とにかくやってみよう。」

Tさんから教えてもらった方法を早速その日から実行しました。

一週間後、奇跡が起きます。劇的でした。

病魔の克服2

慢性B型肝炎で苦しむ私にT氏は「潜在意識を活用すれば病気は治るよ」このように言ったのです。私は「???」ってな気持ちでした。

「潜在意識?なんだかわからないけどそんなんで病気が治ったら世の中には医者はいらないだろう。この人何いってんの?」こんな思いを心の中で持ちつつ、私はT氏の言葉を聞いていました。

T氏が当時言ったことを要約すると次のようなものです。

肝臓癌の宣告を受けた後、転院し、エタノール注入法という治療を受けたが、治療成果は芳しくなかった。自分は子供もまだ小さいので死んでも死にきれないという気持ちがあった。ある日T氏の奥さんが本を買ってきた。その本というのが、「マーフィー」という人が書いた本だった。

そこには、潜在意識の力を使えば病気が治るということが書かれてあった。何か惹かれるものを感じ、その本に書いてあったことを実行した。併せて、「釈迦の霊泉」という温泉から湧き出る水を飲んだ。その後2ヶ月間で、癌は消滅した。

以上のような内容でした。

だから加川君もこの方法をやってみろと言うわけです。

私は、「おいおいそんなインチキ宗教みたいな本で病気が治るわけはないでしょう。この人、今度は精神課に入院するんじゃないの?俺の病気は東京都指定の難病なのよ!治療方法がないのよ。分かってる?」と思いながらも、「もし本当だったら凄いかも」

このような思いで聞いていました。

私は「その本って今持ってますか?」と聞くと、「いや今は持ってきていないから、今度持ってきてあげるよ」との答え。ガッカリです。「普通は持ってくるでしょ」と思いながら、「是非お願いします、絶対に持ってきて下さいね」

このように頼んでいました。

T氏が帰った後も、私は、「今すぐ読みたい」このような気持ちが押さえ切れませんでした。「よし、点滴をはずして無断外出して買ってこよう」こう決心した私は、さっそく財布を手に準備をしようと思ったその時、愕然!!財布の中には「3円」しかなかったのですよ。「3円」これじゃ本どころか飴も買えない。当時既に「800万円」の借金があり、入院費も滞納状態。「アリャー」って気持ちですよね。

諦めるしかなかったのですが、このときは違いました。「うーーんなんとかその本を手に入れる方法はないか??」必死で考えました。閃きました。当時日本赤十字中央医療センターでは、移動図書館というものがありました。これはボランティアの方達が、大きな移動式の本棚みたいなものに、たくさんの本を詰めて各フロアを回って来るのです。確か毎週水曜日だったと記憶しています。

この日がまさしく水曜日、「よし、移動図書館にかけよう」私は点滴台をガラガラ押しながら、移動図書館がくる談話室まで向かいました。待ちかねているとやってきました移動図書館。目を皿のようにして探します。「あったー」ありました。これには私自身びっくりです。すごい偶然。

もう一冊興味を惹く本もありました。本のタイトルは忘れてしまいましたが、「謝世輝」さんという方が書いた本でした。確か、「思いは叶う」みたいな感じのタイトルだったような記憶です。

俄然読みまくりました。体がつらいのもなんのその、「マーフィー」さんの本の要約は、「想ったことは実現するよ」「健康になった自分をイメージし、そうなると信じなさい」このような感じ。しかし、インパクトがあったのは「謝世輝」さんの方でした。

特に引かれたのは、「アメリカではイメージングで病気を治そうという試みを行っている病院があり、なかなかの成果をあげている」「ある地域の原住民の間では、バナナを食べると死んでしまうと信じられている。この原住民の一人に料理を食べさせ、その後、料理には実はバナナが使われていたことを話すと、その人は死んでしまった。」確か、このような内容の記述だったと思います。

私はこれらのことを信じる気持ちは持てませんでしたが、現実、この本を読んで癌を克服した人が実際に存在する。それも身近に。決めました。お金もかからないし。ダメ元だやってみようと。

さっそくその日の夜から取りかかりました。実行したことはいくつかありますが、その中の一つをあげれば次のようなシーンをひたすらイメージするというものです。

主治医がある日、私の検査結果を見ながら、「加川君!奇跡だよ。病気が治ってるよ」こう叫んでいます。それに対し、私が、「え!!先生、本当ですか?」こう私が答えている。

これを毎日ほぼ一日中やってました。何せ入院中は暇ですから。どうなったと思います?

なんとやり出して3日目くらいから、黄疸がどんどん薄くなっていくんですよ。信じられますか?まるで墨汁を入れたコップに水を注いでいくみたいにどんどん薄くなる。真黄色だった白目の部分が白くなっていくんです。体もどんどん普通の肌色に戻っていきました。

一週間後には、肝臓の炎症値を示す「GPTGOT」が正常値に入りました。この方法をする前は、「GPT」が2000を越えていたのが、一週間で、「25」に下がったんです。ちなみに正常値は「35」です。これには本人より、主治医の先生がびっくりです。「こんな短期間でこんなにも値が下がった人は珍しいよ」とおっしゃっていました。

しかし、慢性B型肝炎のやっかいなところは、この炎症値を示す「GPT・GOT」が下がっただけでは治ったとは言えないところなんです。体の中にいる、ウイルスを駆逐しない限りはまた炎症がおきて、「GPT・GOT」が高くなってきます。

そうなるとまた入院です。

私は「キャリア」と診断されていました。キャリアとは、母親がB型肝炎に感染していて、出産のときに赤ちゃんに感染。そのまま成長してしまった人をいいます。免疫機能が発達していない赤ちゃんの時期に感染するので、免疫機能がB型肝炎ウイルスを外敵と認識できず、そのまま共存してしまいます。

体が成長して大人になると、免疫機能も大人になるので、それまで外敵と認識していなかったB型肝炎ウイルスを敵とみなし、攻撃を始めます。そうなると肝炎が発症するわけです。このウイルスを駆逐できればいいのですが、今の医療では難しく、これといった治療法が存在しません。インターフェロンという治療薬もありますが、根治をさせるまでには至っていないのです。

難しいことをずらずら書いても仕方ないので省きますが、HBE抗原の陰性化HBE抗体の陽性化が治療の目標です。これはとりあえず肝炎が落ち着いたでしょうという状態。この状態までは結構行く人もいるのですが、さらにその上のHBS抗体陽性 HBS抗原陰性の状態になれば、完治となります。しかしこの状態になる人はキャリアではきわめて希であり、かなりハードルの高い目標です。

しかし、私はここにターゲットをおきました。「潜在意識の力で、GPTが下げれたのなら、HBS抗体も陽性化できるはず」そう思いました。

しかしことはそう簡単ではありませんでした。GPTを下げることには成功をしたものの、HBS抗体陽性化はなかなかおきません。「今のままでは、また再発してしまう。なんとかしなきゃ・・」そう日々思っているうちに、症状が落ち着いたので退院してもいいということになりました。

退院後、ひょんなことから、私はあるアイディアが浮かびました。

病魔の克服3

退院した私はある日アパートでテレビを見ていました。その内容は、花に水をあげるときに言葉をかけてあげると綺麗な花を咲かせるというものです。このテレビを見て私は閃きました。

「花に言葉をかけると綺麗になる??ふぅーん、じゃあひょっとして肝臓に言葉をかけると肝臓は良くなるのかな?」このような考えが閃きました。

さっそく私は試してみようと思い、その日の夜、寝る前に肝臓に語りかけるようにしました。

このことをやっていると不思議なことに肝臓がいとおしく思えてくるのです。幾度となくB型肝炎ウイルスと闘い、ぼろぼろになった肝臓、それでも自分のために一生懸命働いていてくれる。なんともいとおしく可哀想な気持ちになりました。自然と肝臓に話しかける気持ちも真剣になってきます。

そこで私は、イメージングと肝臓への語りかけを併せて行う方が効果的なのではないかと思うようになり、これらを日々おこなうようにしました。

そんなことをやり始めて一ヶ月くらいたったころ外来診察の時がきました。

採血をしてまた一週間後に検査結果を聞きにきてくれとのこと。一週間後また病院に行きました。待合室で私はドキドキしながら順番を待ちました。「加川さん」名前を呼ばれたときに予感めいたものがしました。心の中で「治ってるぞ」こんな声がしました。

私の検査結果を見ながら先生は、「うん!」こんな声を出し、何回も検査結果が書かれた紙を見ています。そして過去のカルテの内容を見ています。この間は凄く長く感じました。

そして先生はこういいました。「加川さん、これ治ってるよ!!」「s抗原が陰性化している」「うーーん、加川さんは幸運だね、めったにこういうことはないから」私が入院中にイメージしていた言葉とは少し違っていましたが、先生の口からとうとう「治っている」という言葉を聞きました。

私は、病院を出て帰る際に思わず何十年ぶり、おそらく小学生のとき以来というスキップをしてしまいました。本当に本当に嬉しかったです。23歳から28歳までの5年間を病気と闘ってきて、ひょんなことから病気と闘おうという気持ちになり、とうとう病気を征圧しました。

私はこのときに思いました。「難病が治せたのだから、今まで散々ボロボロだった人生を180度転換させてやる。絶対にできるはず。」って。

今度退治しなければいけない敵は借金でした。

借金との闘い

B型慢性肝炎はなんとか治すことができました。実に5年に渡る長い闘病生活でした。しかしこの間満足に働くことができず、入退院を繰り返していた私には800万円近くの借金が残ってしまいました。

しかも退院時には、所持金は全くの「ゼロ」しかたなく私は友達に3万円を借りたのです。既にこの友人からは10万以上の借金がありました。しかし友人は嫌な顔をするでもなく貸してくれました。今でもこの友達にはすごく感謝しています。

入院中は自分の病気のことよりも、こちらの借金の方がはっきりいって心配でした。いつ死ぬのだろうと思いながら入院していましたから、死んだ後に残る借金のことを考えると、その矛先が向くかもしれない両親のことを考えるとなんとも言えない重い気分になってしまっていました。

実家にいる両親はと言えば、父親が前立腺癌が骨盤や膝に転移し、寝たきりに近い状態、母親は脳梗塞の後遺症のせいで、右半身に弱いながら障害がある状態。とても借金のことを打ち明けるような状況にはなかったのです。また打ち明けてもどうなるものでもない状態ですから。

以前の私なら暗く落ち込んで、どうしようもない状態だったと思います。しかし今回は違いました。病気それも難病を克服したという自信から、「絶対になんとかしてやる!」こんな気持ちが強くみなぎっていました。

月々の返済は約20万円近くありました。「さて、どうやってかえそうか?」「う~ん」と悩んでみても良いアイディアは浮かんでくるはずもありません。働くしか手はないのです。

しかし、28歳の学歴もなんの取り柄もない、私を高給で雇ってくれるところはありません。サラリーマンでは手取り25万円そこそこがいいとこで、これではいつになったら返せるのか・・。そんなこんなで「朝から夜中まで働くしかないよな」こんな単純な考え?を出した私は早速フロムA(アルバイト情報雑誌)を買いに本屋に買いに行きました。

そこで、配膳かいの仕事と配送会社の倉庫の仕事を見つけました。この二つの仕事を掛け持ちですることで、月30万位になりました。この中から20万円を返済に回し、10万円で生活をやっていくということを約1年くらい続けました。

1年もやっているとさすがに弱気になってきて、「こんな生活いつまでやればいいんだ」このような想いが毎日浮かんでは消えていきます。

確かに借金は、600万円くらいまで減って来ましたが、精神的にはかなり参っていました。プライベートが全くない、遊びも全く出来ない、もうくじけそうでした。このときには、病気を克服した直後の、「やってやる!!」という気持ちは消えていて、惰性で借金返済をしているだけの状態です。

しかし。ここでくじけてはいけないと気を取り直して、自分の気持ちに鞭を打って頑張り何とか完済しました。

このような病気、借金との闘いを通して私は精神的にかなり強くなったと思います。

今の自分があるのは、このような苦境があったからこそだと思います。

苦境を経験したからこそ、そこから得られた経験とノウハウで、その後の人生で出会う様々なピンチを乗り越えてこられたと思っています。

順調な人生なら私はきっと今は、普通のサラリーマンで、日々、様々な悩みや葛藤と格闘しながら人生を送っていると思います。今では私を苦しめた難病に感謝しています。入院中に出会った人や書籍がきっかけで、大きく人生が好転したのですから。

「宿命は変えれないが、運命は変えれる」この言葉は本当だと思います。自分の人生のデザイナーは自分自身であって、他の誰でもないのですから。

       

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